ページ

2023年12月13日水曜日

この休暇は観光目的ではない

と、のたもうた旦那である。

管理人はリスボンへ行ったら一通りの観光名所を巡って、さらにリスボンから電車で40分ぐらいのところにあるシントラという街、そしてEU最西の岬へいこうと思っていたのだが、旦那の表記のセリフにて全てを取りやめにしたわけである。その代わり、丸4日間、リスボン中心地で食べ歩きである。

冬のポルトガルは雨に見舞われることが多いと聞くが、管理人夫婦の日程では丸4日間のうち丸1日が雨という感じであった。その雨の日はホテルの目の前にあるクリスマス市場をまわって、適当にグルメして終わりとした。

12月8日は敬虔なクリスチャンの国では聖母関連の休日となっていて、ポルトガルも例外ではなかった。おかげでリスボン大聖堂も中には入れてもらえず、お目当てだったレストランも長蛇の列で、やっと辿り着いたのがコルメシオ広場であった。ただのだだっ広い広場に銅像がある。だが、この日はポカポカ陽気で、地元民が聖母関連の休日を楽しんでいたのであった。暖かい日差しの下、平和な広場の様子、しかもシャボン玉芸人が絶え間なく広場にシャボン玉を供給してくれている。12月だというのにブーゲンビリアも咲いている。ここで白ワインを飲めばそれは極楽というものである。
 



10 件のコメント:

紫陽花 さんのコメント...

管理人さん こんにちは。
ロカ岬は魅力的だったとは思いますがグルメが最優先の旅だったようですね。
12月8日は真珠湾攻撃というより”聖母マリア無原罪御宿りの日”というフレーズがスルッと出てくるのは、昔刷り込まれた記憶は年老いても残るということを証明しているようです。

さんさん さんのコメント...

無原罪聖母お宿りの日
う〜ん、なんだか分かりにくい表現ですがキリスト教徒以外の無遠慮な理解で言えば
聖母マリアがキリストを懐胎されたのは「シタ」覚えがないのにいつの間にか「デキ」ちゃった、と考えていいのでしょうか。
マリア様の身になって考えてみれば大いに迷惑、この責任どう取ってくれるのよッ、と叫びたいところであったでしょう。身に覚えがないのにあるべきものがない!、私は聖書を読んだことがありませんし男の身ではありますがその時の
マリアの驚愕は十分に理解できると思います。
そこに都合よく天使が登場説いて曰く。。。
ということになる、マリアも事情がわかって納得聖母になる決心を固める。。。ということだと思いますがなんかこれ男のアタマで考えたストーリーくさい。
天使の一言で納得できる様な話じゃない、女性の心と感情になって考えればもっともっと葛藤と不安と畏れに彼女の妊娠初期はゆさぶられたのではないか、などと考えます。
いややっぱりこれは男の勝手な目からだけ見た物事の一面だけの様に思えます。

Mikija さんのコメント...

こんにちは、紫陽花さん。
ええ、「リラックスすることが目的だ」という言葉に押されてだらだら過ごしてきました。
ああ、さすがです。この12月8日の祝日は敬虔なカトリックの国だけです。ラトビアではプロテスタントが主流なので休みになっていません。リスボンの大聖堂は中も見たかったのですが、お気楽に8日に訪ねてしまって完全にシャットアウトでした。

Mikija さんのコメント...

こんにちは、さんさん。
まあ、大筋で合っていると思いますが、マリア様はご自身のご懐妊には気づいておらず、大天使がやってきて「ご懐妊です」と告げて「そうなのですね」と受け入れたということです。この辺りの話は、現代になぞらえても苦悩しか見えてこない感じです。マリア様の夫ヨセフは自分の関与していない懐妊を許容しなくてはならなかったわけですし。その辺が人間っぽい話です。

匿名 さんのコメント...

さんさん 管理人さん 
聖母マリア無原罪の・・・の云々は聖母マリアの母が神の恵みでマリア様を授かり、マリア様は原罪を免れて生まれた子供であるという日です。キリストが生まれるのはマリア様が生まれる前から決めれていたことというわけです。

紫陽花 さんのコメント...

さんさん 管理人さん
言葉足らずだったかもで追加です。マリア様の誕生日というのではなくてマリア様の母がマリア様を授かった日という方が正確かもしれません。原罪を持っていない親からキリストは生まれたという宗教的な裏付けをするための言い伝えですね。

さんさん さんのコメント...

ははぁ、宗教あるある、ですね。
なんか今の者にしてみれば「何よそれ、そもそも理屈に合わないじゃん」てなハナシも「これが信じられないなら信仰そのものが成り立たないのよッ」という
一言で押し切られる、要領を得ないままずっと続けて来た教会参りお寺参詣の習慣は捨てられず。。。てなところでしょうね。ボーズはボーズで「信じる信じないは二の次三の次、とにかく参って来てお賽銭あげてアタマ下げていればひとりでに心に染み込んでいく」なんて都合のいいこと言っちゃって。
これって今風に言えばマーケティングの一環と言えるかなぁ。 「このバチあたりめが」という声がドコカから聞こえた。まことに人間社会の七不思議、さりとて信仰持っていた方がラクに苦難に満ちたこの世を渡っていけるのもまた真実。やれやれ。

さんさん さんのコメント...

あじさいさま
これは知らなかった、教えていただなければ私ももう83?84?、知らないまんまでさようならになるところでありました。
あっちへ行っても「これだから仏教のボーズは。。。」なんて陰口聞かれるところでありましたぞ。
厚く御礼申し上げます。しかしねぇ、親の代から清らかにしとかないと、つまり2代続いてきよらの身でないとイエスはできなかったって、キリスト教の方が教祖選別がきついですね。
もっとも私が(自ら)身を投じた禅宗という集団は教祖というか創始者という人がいない、なんかいつの間にかできたモノらしく「ありゃぁ宗教じゃねぇよ、世の中での身の処し方、生き方の作法みたいなもんじゃぁ」なんていう人もおられます。

私はそれはそれでカッコいいと思っています。

Mikija さんのコメント...

こんにちは、紫陽花さん。
おお、大変勉強になります。大人での入信だったので一応教会の講義とかも一通り受け聖書も全て読みましたが、これは知りませんでした。しかもとてもわかりやすい説明で助かりました。Wikipediaを見てもよくわからない感じです。どうしてラトビアでは休日じゃ無いのかと調べたところ、ラトビアはプロテスタントが主流なのでマリア崇拝自体がないからだ、ということでした。

Mikija さんのコメント...

こんにちは、さんさん。
宗教は皆、信じるものは救われる、ですから。
前にも書いたかもしれませんが、ある有名な学者が難病になって死を覚悟してから、「私は神に選ばれた」という様になりました。それを見ている普通の人からすると「頭もおかしくなったか」と思うわけですが、そうではなく、死を覚悟したからこそ毎日が尊く輝いて見える。全てのものに感謝することができる、ということを「神に選ばれた」と表現したようです。避けて通れない困難にぶつかってしまった時は宗教が助けになることが多いように思います。