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2022年4月12日火曜日

さんさんのお話(16)マイナちゃん 続き

 今朝もマイナがお腹を空かせて木の枝に泊ってこっちを見ているのでご飯を投げてあげたら

「ありがとね、でもあたいらがベジタリアンだって言っていたの聞こえなかった?」っていうので

「マイナ語でピロピリ木の上で言ったってわからないさ。まぁこれからはごはんあげるよ」というと

「うれピィ、でもさぁ出来たら冷蔵庫に入れてあった昨日のご飯じゃなくて炊き立ての方がもっと嬉しいかも…」と申しますので

「あのな、おめさん達の言葉しらねぇけどよ、人間の方じゃそういうの”わがまま言うな”っていうんだぜ」と申しますと

「やだぁ、これでもないよりマシ」と言ってきれいに食べてしまいました。


常連の鳥達を見ていると一人一人性格が違うのがわかり始めました。

止まっているところから大きく動かずに咥えられるところに放ってやらないとパスする横着なやつ、顔を並べて餌を突き合う友好的なやつも反対に自分より体が小さいと「おう、ここは俺っちの縄張りだゼェ」と嘴をカチカチ言わせて威嚇するやつ、ほんと今までは小鳥という一括りで考えていたのが申し訳なく思います。

英語国民が庭の鳥までジョージとかメリーアンとか個別に名前をつける癖があるのはこういうところからなのだなぁ、と。

わがまま言っちゃ行けねぇぜ、と言った途端に思い出したんでございますよ。

僧堂にいた頃毎朝麦6コメ4の雲水のご飯とは別に小さな一升炊きの釜で混じりっけなしの白いご飯を炊いて

おクドの上に祀られた三宝荒神から玄関を入ったところの大黒様そして本堂に5ヶしょ位牌堂の大日如来に3ヶ所さらに開山どうに…おっと忘れた老師の時念仏と露座の観音様も

御仏飯をあげるのが決まりでしたがその時に大先輩から佛飯てのはなぁ大自然に対して「ここに居でさせていただいてありがとうございます」って気持ち捧げなあかんでって言われたことを思い出しました。

大自然に感謝といえばこの庭に来る鳥へのご飯もやはり御仏飯と同じだから昨日のご飯じゃ気持ちが通じない。

で持って鳥に言ったんですよ、わかった感謝が足りんかった、これからは炊き立てをあげるから、ただしわたし所は二日に一回しかご飯炊かないから

炊かない日は生米を盃にいっぱい出して置くからそれで勘弁ね、って。

この炊かない日は生米をちびっとってのはこれも僧堂の知恵、いかに僧堂でもご飯を炊かない日もある、そんな日は生米ちびっとでお参りに来た檀家さん対策をする。


ボーズと政治家という人種は本当に言い訳が上手ですね、いやほんと。

2022年4月8日金曜日

さんさんのお話(15)ゴハンが好きなマイナちゃん

 キャラバン住まいのいいところはテント暮らしと一緒で限りなく外の自然に近いこと、それでいて雨が降っても濡れる心配がないこと(もっともわたしのは最初雨漏りがして、それもベッドの真上からトクトクと。慌てて真っ暗の中で梯子を探して屋根に登りビニールをあてがいました。)屋根を打つ雨の音がテントの中にいるように身近に聞こえて「大自然ダァ」と感動できます。そして寝転がって見る草原の夕焼けの美しいこと!

あたりのは多数の小鳥が朝から飛び回っておりますので一つ餌付けしてやれと思って、これ内緒ですよ、野生動物に餌ずけするのは悪いことだと言う人は多いし、人間に依存するようになったら動物の命を縮めることになると言う理屈もわかります。

まぁ餌台を作って常時食料を提供するのではなく朝起きた時だけ、と言う決まりを守れば、と考えてはじめました。

夜中暗い中では餌を探せないし鳥は飛ぶために軽くなければいけないから”腹一杯’食べられない。でもって朝は鳥たちは目が回るほどにお腹が空いている。

最初は一番たくさんいるマグパイとブッチャーバード、どちらも黒と白で地味ですがその鳴き声がとても綺麗、マグパイは数が多いせいでしょうかすぐなれて、と言うか馴れ馴れしくなりすぎて人の膝に登って

餌を直に袋から食べようとしたりしてまるで浅草の観音様のハト状態。

でもってマグパイとブッチャーバードは手から食べるようになりましたがさぁ5、6粒バードフード(さすが都会ですなぁ、雑食の鳥用の乾燥餌を売っておりました)を食べると「ありがとさん」とさぁーっと飛んでいってしまって’食べ過ぎ’なんて心配はいらないようです。

でもってこのマイナちゃん、

もともとインドが原産地だそうですがあまりもりもり繁殖するので当地ではノイジーマイナなどと差別を受けておりますが結構内気。英語ではMYNAHと綴ります。

餌をやっているのを木の枝に止まっていかにも欲しげに見下ろしておりますがなかなか降りてくる勇気が湧かない。

こいつはもしかすると草食なのかも?と思ってご飯を炊いた鍋からひとしゃくい白ごはんを芝生に投げておいたらなんと人影が見えない時に降りてきて食べているじゃありませんか。

写真でお分かりのようになかなか渋い色味の取り合わせですがどうして粋なんですよね。嘴の黄色と目の後ろの黄色の羽、同じ黄色でもちょいと違わせているなんて憎いじゃありませんか。

https://ebird.org/species/commyn?siteLanguage=es_ES より引用。


2022年4月2日土曜日

さんさんのお話(14)英語奮闘記

さて英語

生まれて初めて英語というものに触れたのは終戦直後我が家、その頃は吉祥寺に住んでおりましたが隣にイギリス人の一家が住んでおり
そこの子がわたしと同い年だったと思いますがなんというか垣根の隙間から行ったり来たり、小学生の低学年確か二年生ぐらいだったと思いますが
違った言葉を喋る子がいる!こっちの話すことがどうもわからないらしい、不思議ダァ…と初めは好奇心から、向こうも敗戦国の原住民の子と遊ぶのも、って意識があったかなかったか
別段親が止める気配もなくそこはそれガキ同士のこと鬼ごっこかくれんぼ、通じないなりに意思を疎通させて日が暮れるまで遊んだものでした

しかしなんですねぇ、英語国民はどうしていつの時代でも世界のどこに行っても自分の母国語が通じると思い込んでいるのだろう。その子ジョンは頑固に英語だけ話し次第にわたしが負けて
”Oh,Hi’なんていうようになっていったものでした。我が英語習得の第一ページであります。

でもってガキとはもうせイギリス人でありますから「ろくちゃん(あたし俗名を六郎と申します)そこ違うよ」とかthの発音はこれだよ何てやかましいことが甚だしかったです
遊びの楽しさにかまけて口喧しいご教授も聞き流しているうちに耳に慣れイッパシロンドン風のrとlの使い分けなんてことも。

もっとも小学生低学年ですから文法なんか手が出ない。中学に入ってからは英語の授業が苦痛でしてねぇ、過去過去完了なんじゃそりゃ状態で毎年スレスレの超低空飛行を続けたものでありました。
ただ一つ日本の英語教育に感謝するのは低空飛行ながら何がしかは頭に残っていたと見えて「貴君の英語はどこで習ったのかね?とても折り目正しい英語で聞いてて感心する」などと三人称単数と過去完了に手足取られながらもがくわたしを褒めていただいたことも。

最もバナナ農園を買って自分一人で百姓をしていたので街の人々は
1バナナ農園は急斜面に作られて全て人手で作業しなければならないがオーストラリアではトラクターがはいらない土地は農地とはみとめられない。
2そのため無茶無茶に働くのを厭わないビンボー移民がバナナを作る、のが常識。初めはイタリアやギリシャからの移民が、その連中が卒業すると今度はインド人特にターバンを巻いたシーク族がバナナを。
3。わたしが始めたのが千九百八十年代、日本は好景気に沸いていた時期で日本人といえば背広着て札束片手に観光地の土地を買い漁るもの、と思ってたのがインド人から引き継いでバナナ作るげな、いやわしの聞いた話じゃあそこは眺めがいいから大マンションを建てるとか聞いたぞとか、街の噂になったそうですが泥まみれになってトラック運転して貨物の集荷場へバナナの箱を運んでいるとどうもこの日本人はイメージと違うと思っていただけたみたい。

しかし折り目正しい英語かどうかは別として相手を労る、例えばHELLOと言ったら必ずそこにはHOW ARE YOU?というフレーズがくっつかないといけない、なんてことは教室英語では一切習いませんでした。

もっともこのHello,how are you?はおかしな場合もあって医者の受付でHi,というとHow are you?と返される。How are you,の返事は何がどうあってもFine,thanks,と返事することに決まっているのでわたしは時々ひねて見せてfineだったらこんなとこでうろうろしとらんワイ、なんてジョークで返したりします。
これも友人にhow are youの返事にあ今日は歯が痛くっておまけに痔が痛いなんて言ったらいかんのかい?って聞いたらいかんいかん、きかれたらなにがどうあってもFineを言わないとですってさ。

それと悩まされるのが言葉の意味の重層、一つの単語が名詞にも動詞にも形容詞にも使えしかもまるっきり違った意味を背負っていたりする。しかも、しかもですよ時間が過ぎてゆくとその言葉の意味が徐々にずれていったりする。トークショーなんか聞いていると何言ってるのかまるっきりわからんのに満場爆笑とかは大抵これである。言葉は引き金を引く道具に使われているだけ、客はその先の意味を悟って大笑いしている。
まぁ英語国民が落語を聞いてもわからんでしょうけどね。
とにかくロージンになってオツムが退化すると自分が2/3、いや半分しかはっきりは分かっていない会話をなんとか乗り越えるのがだんだん辛くなってきたこともまた事実であります。イタリアンの老人ホームはイタリア語が話せないと職員になれないとかチャイニーズもまた自国語の老人施設を持っているとか。足が弱る時頭も一緒に弱るのでしょう。
さんさん撮影。


2022年3月29日火曜日

さんさんのお話(13)ブリスベーン大洪水

今頃そんな話してる?などと仰せありますな、ちょいとサボっておりましたら管理人さんから催促のメールが。

逆に申せば催促をしてくださる方がいられる、「オメ、まだ忘れられとるわけじゃないんだかんな」と仰せある訳で誠にありがたく思いました。

でこれは二月下旬から今まで一月近く続く大雨でオーストラリアの東海岸はどこもかしこも水浸し、特に私が住んでおりますクイーンスランド州の南東部からNSW州の北東部はどこも洪水に悩まされました。

洪水って言っても日本の洪水のように濁流渦巻くとかは全くない、そこはそれ真っ平らな土地ですから洪水も池の水がいつの間にか増えるようにソロ〜リと上がってくる、はい逃げる暇は十分にございます。

これだけの大規模な洪水にあっても亡くなられた方の数がせいぜい数十人。その犠牲者も川が増水して橋の上まで水が来ているが「えい、行っちゃえ」と水の中に車を進めたら思ったより深くて車ごと水にさらわれた、という方がほとんど。何しろ広い国でしょ?橋だって日本でもたまに田舎道にはありますが”沈下橋”という種類、橋に欄干がなくて橋脚も短くて増水すれば流れは橋の上を越すという構造、日本風の鉄橋より格段に安くできますそうな。

でもね不思議でございます、これだけ水に使ってパァになった家財道具、それこそ一家のベッドからタンスソファから冷蔵庫洗濯機に至るまでありとあらゆるものがダメになっても堤防を作るという発想がない。

なまじじわっと水が上がるタイプの洪水で人の命はあまり犠牲にならないからかと思いましたが家財道具にはそれぞれ愛着もあり思い出もこびりついていてその一切を一夜で失う悲しみは見ていることすら辛いものがありまする。

新聞の写真から拝借した下の絵でも(わたしにはとてもこれだけの人様の不幸にカメラを向ける勇気がない)ゴミの山の上にきれいな国旗が建てられていて「全てのもの失ってもオーストラリア魂は元気だぞ」、と。

それでも川には堤防を作って川は堤防の間をおとなしく流れてもらうという発想がどこにもない。川というものは土地が窪んだところをぬって雨水が流れるものだ、と皆さん上から下まで思っていらっしゃるんでありますですよ。

「どうして?」ってここの人に聞いたらば「堤防ダァ?あんな見苦しいもの作られるっかよっ」って大変な鼻息。要するに窪んだところをゆっくり流れる川のヘリは芝生を植えて緑のスロープにする。コンクリートや土を積み上げて人の目を水から遮る、なんと無粋な発想をこのp東洋人はしているんだ!てな目つきでありました。

これは証明できませんが英国の原野、そこは貴族が馬に乗って狐狩りをする猟場、川があれば「はいよー」って馬を励まして飛び越えてこその狐狩り。堤防などあってはならぬものじゃぞえ、と言ったとか言わなかった、とか。そういえばイングランドの野原の写真で川を飛び越している絵は目にしますが堤防をかけ登る、なんてシーンは見たことがありません。

長年の習慣が身にしみついて「川には堤防などというものを作るものじゃない」のが当たり前になって植民地の私らも右へ倣え、なのではと思われるフシがございます。

三月になっても洪水は繰り返しやってきてそこはそれ地球温暖化だぁの合唱、それっきゃセリフがないのかえ?と言いたい。堤防なし川はまた次の大雨が降れば同じ高さまで水が来る。町役場に行けば何年の洪水はここまで水に浸かったという浸水危険図を見せてくれますし10年一回ほどの頻度で水に浸かる地域で火災保険に入ろうとすると他所より結構高めな保険料金になっていてびっくりしたりするそうです。

https://www.buzzfeed.com/ishabassi/australian-floods-aftermath-clean-up-photos?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharecopy&sub=0_128890311#128890311
より引用。


2022年2月26日土曜日

さんさんのお話(12)春夏秋冬の

 季節の中でその到来が一番誰からも待たれるのはやはり春でしょうね。

冬なんてのは「しっし、あっちぃ行け」なんて言わないまでも木枯らしの梢を鳴らす音に聞き惚れる人なんてのはあまり聞かない。


しかし待つとなかなか来ないのもまた真実。おもいだすなぁ、「渋谷の山手線のハチ公広場に出る改札口で2時にね」って約束して

1時45分にもうついて待つ、なかなか来ない、来ないだけじゃない駅の時計が止まっているような気がする。


伝言板の白く煤けたような(余りたくさんの人が毎日チョークで“◯子2時間待った”なんて書くので黒板が擦れて白くなっている)メッセージを見てもお目当ての

彼女の書き込みはない。


まてばまつほどイラッとすっるが愉快じゃない顔してちゃいかんぞと自分に言い聞かせる、いや春に限らず待つというのはエネルギーが要るものです…ってお前何書いてるの?

ジィさんの高校の頃のフラれた話なんか聞きたくねぇよとおっしゃいますな、彼女さんはこのあと10分ぐらいで満開の花のような笑顔をつくって「ゴッメーン、待たせタァ」なんて。

歩き出すと手ェ繋ぐんじゃなくってトレーナーの肘のあたりを摘んでくるのが可愛かったなぁ。


いやいやいや、北半球の皆様は管理人さんをはじめとして如月過ぎればもう春のおとづれ、ってんでウキウキしていらっしゃるだろうって話、でも待っているとなかなか野原は緑色に染まないものであります。


いやいや、春にお話が中心じゃなくてここ七日ほど私が今住まいいたすブリベーん市を含んでクイーンスランド州南東部が連日200ミリを越す豪雨に見舞われてテレビでは毎日1時間おきぐらいに

制服を着た偉そーな人が「とにかく外出しないでください」を繰り返しています。

何しろ平べったい土地なので洪水って言ってもあなり一面は池のようになっているだけ、ついつい「えい、いてまえ」と水の中に車を乗り入れる、水は当然濁り水下がどうなっているか踏み込まなくてはわからない、結果当たり前のように水の中で立ち往生。

金がなかったか人手が足りなかったか道路が水を被っても「行くか帰るかは自分の判断で」というオーストラリア気質、いやワクチン接種を強制するのは許せねぇって道路封鎖を何週間も続けたカナダの例を見るとオーストラリアだけではなくてアングロサクソンに共通なのかもですね。


しかし春、命甦る春…ロシアのプーチンさんなんか回春なんて言葉が広告に現れるとピクってしたりして、東方教会の偉いさんに”密かに”命令して延命祈願の御祈祷させたりして。嘘ですよ、でも今の彼にとって

一番欲しいのは時間だろうと。えいえいと政敵を殺したり潰してきてプーチン帝国がもうほとんど出来上がりロシアはおろか習近平と手を組んでアメリカが自滅するのを待ってから世界を思うままに。

世界史、人類史に必ず記載される大人物になれる日がそこまできているのにあとどれだけ「モツ」のか(ヤラシイ意味じゃないですよ)甚だ不安な今日この頃ではなかろうかと拝察いたします。

自然てのは個人の事情なんか気遣っちゃくれませんからねぇ。


ともあれ北半球の皆様、暖かくなるのももうそこまで。ここまで頑張ったのにコロナなんぞと仲良くなったら元も子もございませんよ。

オーストラリアのタンポポ
これも他に鼻の下じゃない花の下の茎が長い種類が庭に普通に見られます

(管理人注釈。さんさんはタンポポだと思っていますが、これはジシバリかコウゾリナだと思います。)



2022年2月19日土曜日

さんさんのお話(11)海外移住の理由

人生には計画して予行して実行に移すような慎重な行動が必要なシーンもあり反面自分でもどうしてそんな情熱にとりつかれたのかよくわかんないけどどうしてもやり遂げたい、というシーンもあります。

なぜ住み慣れた故郷を離れてそれもオーストラリアへ?と尋ねられてもなぜ人類は発祥の地のアフリカを離れて地平線の彼方へ何の保証もないままに旅立ったのか?という問いの答へはまだ無いように
わたしのちっぽけな人生の軌跡を”なぜか”と誰でもが納得する答は今でも見つかりません。
つくづく自分というニンゲンの内側を眺めると多分これも一つの要素なのかも…と言える心の傾向は見つかります。
一つは好奇心が強い、JALの飛行機を飛ばしている機長さんの一人に航空大学を卒業した後貨物船から荷物を艀に積んで岸壁まで持ってくるあれは沖仲士というんですかね、に就職してからJALに転職した方がいらっしゃるそうですがこの人も「仲士はどうしても一回やってみたかった」のだそうで好奇心は人間の行動を決める大きな要素の証拠ともいえます。
もう一つはわたしの子供の頃は移動がものすごく大変だった、東京から大阪に行くのですら新幹線なんかないし飛行機あったのかなぁ、多分国内線なんかなかったと思います。東海道線を夜汽車で8時間。
そんな時期に思春期を迎えたわたしは「あの海の向こうはどうなっているんだろう」という憧れにも似た好奇心がいつも胸の中にありました。何しろ白いワイシャツ着てネクタイしてエラソーな顔していない白人てどうなの?という好奇心だけで大して残っていない小遣いを叩いて横浜港へ行って上陸しないでデッキに佇んでいるヨレヨレのセーラーを見て「そうか、基本は変わらないんだ」と興奮したりしたものであります。
それともう一つは都会に育っただけに自然への憧れが人一倍だった。薪の煙が微かに漂う空気を吸って恍惚感を感じる、そんなガキでもありましたよ。

そんな要素を持つわたしがあれもこれもと世間に揉まれて「自分の底から出てきた答えを持ってきなさい。頭で考えただけの浅智慧なんか役に立たん」と言われ言われてようやくトレセンを卒業して住職になってみるとそこにあったのは本山の宗務課からの”ご指導”、そして基本の流れは江戸時代から変わっていない村社会の人間関係と政治的?策略。まさに菜の花の沖の第一巻に出てくる本村と今在家の若衆組の対立
ニホンというものをまるで知らなかったのだなぁと天を仰いだものでありました。

そろそろ四十代も後半、ここで一つ勝負を打たないと我が人生悲惨な妥協一色で染まってしまうぞ、と思ったことが一番大きな動機だったように思います。
いくつかの国を候補にして図書館で、まだその頃はGoogle様なんて神様みたいな存在はありませんからね、情報を集めてなしなしの金を集めて飛行機で上京して(なにしろ外出中に僅か70軒とは家どなたか亡くなったらえらいことですからね、ケータイなんてものもなかったなぁ)候補の国の大使館を訪問してわたしの状況で移民が受け入れられるか尋ねて歩いたものでした。
その国の中で手触りが一番暖かで「技術移民」の枠に入るよと言ってくれたのがオーストラリア。枠があるというのは大きな希望でしたがそれ以上に応対してくれた館員、英語のテストを兼ねて言葉切り替えましょうかって言ったら「いやわたしは訛りがひどくてとても君には聞き取れないだろう」なんて。オーストラリア訛りなんてのがあることも知らなかったわたしでありましたが真面目に一生の決断を決めるために訪れたわたしに対面してくれる誠意が感じられて。
考えてみれば決断なんて大事みたいだけれどたまたま面談した大使館員に温かみが感じられた、そんな偶然が大きな要素になっています。もしあの日たまたま同じ人でも歯が痛かったりしたらきっとわたしはどこか他所に行っていた、理性での判断と直感の絡み合い、そしてそこに決定的は影響を持つ「運、とくに運が人生に与える影響は恐るべきだと思います。そう考えると人間は昔も今も地球のどこにいてもそれなりのカミサマを持ちそのご機嫌を損ねないよう気を遣ってきたわけだと納得できます。

写真はTweed川、平べったい土地ですから川と言っても池みたい。水が濁っていますがこれはオーストラリア中どこでも。いわゆる清流というものを見たことがありません。土が混ざって濁っているか落ち葉から出るタンニンで茶色くなるかのどちらか。





2022年2月11日金曜日

さんさんのお話(10)ボーズトレセンを卒業して

 毎朝、いや違いました月に二回は朝2時に起きて、いや起こされて1時間国家安康祈願の余分な読経をして薄い涙粥の朝飯を食べてようやく迎えられたお寺は私の目から見たらまさに理想。山の裾を段状に切り開いてコンクリートの土留じゃなくてひと抱えもある自然石を積み上げて作った上に江戸時代に建てられた本堂、そして鐘楼。境内に入ってゆく石段も同じ自然石でしかもなんと境内には1日千トンとかいう天然湧水が湧き出している。

檀家さんがわずか70軒しかいないで寺の維持管理はどうするとか周りから意見を言われましたがもう私は一目惚れ、なぜ先住職がなくなってからずーっと空き寺だったかなんて考えもしなかった。

70軒でこの立派な寺、バランスが悪いじゃんて考えたのは入ってしまってから、要するに昔の地主さん、金持ちだったんですねー。戦後占領政策で地主は土地は取り上げられて小作と地主がひっくり返った。それだけならまだいいんですが”地主の寺”という位目というか反感があって田舎の農村では甚だ以って居心地が悪い。何しろ檀家さん以外の住民が口きいてくれない。

戦後四十年経ってもまだそんなだったなんてこりゃ私の歴史の成績が悪かった報い。おまけに僧堂(ボーズトレセン)では問題の答えは自分の頭、いや自分の体から出る答えを持ってこい、って聞かされ続けたのにいざ外に出ると”自分の頭”で考えちゃいかん、本山の宗務課が「こういう方向で導きなさい」って示す方針に従って話せよ、って。なんじゃそれ?

それでも十二年頑張りましたですよ、でもって新築以来百五十九年は経った屋根の瓦の総葺替え、雨漏りがひどくなって大工さんにこのままじゃ建て替えも考えに入れなくちゃなんて脅かされてありとあらゆる手ズルを辿って寄付を集めて葺き替を実施。でコレでしおさめってオーストラリアに来たってお話です。

え?オーストラリアで何してたって?

数百万しかが全財産で知らぬ土地で一家三人飯を食うことが最優先。幸い手に入れられる範囲で売りに出ていたバナナ畑(バナナは生産性が低いので山の斜面で作られる、箱詰めの作業小屋があればあとは2本の足と手だけで仕事ができる)と本当の小屋。まさに開拓移民の姿でしたなぁ。おかげでその頃日本はバブルの真っ最中「日本人てのは高級車に乗ってオーストラリアの土地買い占める奴等」かと思っていたけどあんたは違うねぇ、なんて言われましたっけか。営業かボーズになって上がりがよその国で百姓、めでたしめでたしあの武蔵野の夕暮れの中で一人小さな焚き火を灯した夢が叶いました。

下の写真はユーカリの古木です。

オーストラリアの開拓時代、まだ牧場を開く金もない頃はひたすらに森のユーカリを切り倒してはイギリスに送った、おかげでユーカリの古木ってのは少ないのですがこの木は地上低いところで枝分かれして材木の価値がないと見られて命拾い。こんな枝が落ちてくるんですから電線はおろか人だって当たれば人死が出る、ユーカリももうすこし考えて枝を伸ばせばいいものを。




2022年2月6日日曜日

さんさんのお話(9)生きてますよー。

ああ、よかった!さんさんから先ほど連絡いただきました。皆さんも心配していたことと思います。このほぼ1ヶ月の事情について語ってくださいました。

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 なんと!1月13日に風が吹いて木の枝が折れてうちに引き込む電線電話線が引きちぎられました。

流石に電灯の線は医療器具やら自宅で使っていらっしゃる方もいるわけで命に関わるってんでその日に直してくれましたが

電話線、最近皆さん携帯ばっかり、家に「電話」なんて置いてない家が増えて電話会社に連絡しても返事があいまい。

「電話料金はそれぞれの配信業者に入るわけですからしてまずそちらに連絡されてから業者が”直してね”って言ってきてから」という姿勢のようでした。

天空をびょうびょうと吹きすぎる風の中から「あいつもとうとうくたばったか、案外あっけなかったなぁ」とか「あいつのこったからマトモな死に様じゃなかろう、強盗にでもくびり殺されたか」なんて声が聞こえてきましたがこればっかりは先様任せ。でやっと電話線が直ったと思ったらネットに繋がらない。

またまた業者に電話するとあっけらかんと「ああ、それは断線のショックでモデムが壊れたせいですわ、自費扱いに…」ですと。

わかっているならなんで言わねぇんだよ、と思ったがここでキレては話がなくなる、なにしろ「もうオメェにゃ頼まねぇ」とけつをまくっても代わりがない。拝み倒して見てもらうと

「この手のモデムの在庫がねぇ、シンガポールから取り寄せになりますなぁ」という話、あ〜あ。でもって昨日夜になってやってきてスイッチポンでハイ解決。

オーストラリアは羊の毛と牛肉だけを生産して自動車からお皿から毛糸から釘まで外から輸入するという姿勢が骨まで染み付いている、頭でわかっていても実感していなかったことを思いしららされました。

という次第でございました。

2022年1月19日水曜日

さんさんのお話(8)ボーズトレセン

 いま、人生の黄昏時も過ぎてもうちょっとで物のあやめも分からなくなろうという時期になってふと、じゃなくてもちゃんと思い返してみると

まず与えられた自然環境が自分の心の一番の基礎を作りその上にその時の社会環境やらがちょうどサザエが次々に殻を伸ばして体を大きくしていくように成長して行ったように思える。

戦争の時代に生まれたが戦時の記憶は夜空に陰々と響く空襲警報のサイレンの音と「寝床に靴履いて入っていなさい」と言った親の言葉、うちの中なのにそれも布団の中に靴履いて?という違和感だけが

記憶に今でも残っている。

見事に我が家は丸焼けだったがその焼け落ちた廃墟の記憶はまるでない。


終戦の次の年の4月入学、教科書はまだ新しいものができず先生が「何ページから何ページまで切り取りましょう」なんてマッカーサーが文句言わなさそうなところだけ残して古い教科書を使っていた。

占領軍におべっか使いたかったのかどうか分からないがこの小学校でずーっと「自分で考えて実行しよう」という個人主義が大事だと教わって六年までいたからこれが思想の根っこになったのは間違いない。


武蔵野のそれも端っこにあった家は疎開先が丸焼けになったのにこっちは焼夷弾ひとつ落ちなかった。家の隣は武蔵野の野菜畑が広がり家の後ろに林と呼ぶのは大胆過ぎないかい?と言われそうな雑木林があって友達と鬼ごっこ(戦争中の名残か鬼ごっこって言わずに戦艦ごっこって言ってたなぁ)をしていない時はその林の中でじっとしているのが好きだった冴えない子だったらしい。


しかしこの記憶が高校生になって目を覚まし北アルプスの雪渓の写真をみて「この景色をなんとしてもみたい」と思うと山岳部へ。

山岳部、今おもうとあれはまさに若衆宿そのものでしたなぁ。下っ端から順番に重いものを担ぐ、縦走合宿の前には体を「慣らす」ためと称して2を背負ってマラソンをしやっと帰ってくると今度はそのまま蛙飛び。

ほんとに死ぬかと思ったが経験するということはすごいものでこれが後で自衛隊で役に立った。マラソンだって自衛隊のマラソンは速さだけじゃなくて一人も落伍者を出さないで全員完走が基本、足がつったり気絶したやつは何人掛で担いで走る。不思議なことはここはまるっきり若衆宿ではなかったですね。私的制裁厳禁は共通語で銃の手入れが雑だったり制服のズボンの筋目がよれたりしていると「はい、営庭3周」で体力向上に役に立つことが罰だった。張り飛ばされるなんてことは全くありませんでしたよ、今も変わっていないだろうなぁ。

でこのふたつの経験がボーズへの道に進む元気のもとになったのですがこのボーズトレセン、これはまぁ徹底的に若衆宿でしたなぁ。同じ僧堂でいた時間の長さだけで身分の上下が決まり目上の人には絶対服従

体罰は日常茶飯、と言っても傷が残るとまずいので平手で張り飛ばす。目から人よく物の例えで言いますが’ほんとに張り飛ばされた一瞬あたりぱっと明るくなる。意地クソの悪い旧参(先輩のことですな)は

寝ることを邪魔する。夜座と言って正規の座禅の時間に他にまぁ今時の言い方なら自主研修と言いますか、夜開枕(消灯のことです)になった後こそっと本堂の縁側とかに行って(まるっきり外だと夜露で体が濡れるでしょ)自主的に座禅をするわけですよ。

この時1時間ぐらいすると上位の人から順番にこれもこそっとかえってねる。寝るんですが自分より上位の人が寝に帰らない限り帰れない、が意地悪は席を立ったのに下のものが気が付かれないようにこそーっと立つ、気がつくまでに1時間2時間。ね、意地クソ悪いでしょ? 誰かが今の世の僧堂の暮らしは二百年前の農家の暮らしそのものだ、という人がいたが庭に出て掃除するのもゾーリなど勿体無い、裸足でやれなんて。藁ゾーリだって自分で使っては勿体無いという暮らし、江戸期の農家のねぇと思った物でした。

でそんなこんなしているうちに外から苗木屋の店に並べられた鉢の枝ぶりがいいやってんでお客さんがつくように「うちの寺へ来ておくれ」というお誘いがかかるんですがこの卒業判定がまず自分が「もうそろそろか」と思うことと僧堂の指導者老師が「うん、年も年だし世間に出してもいいか」と思うことと出家した時に得度した(頭を剃った』授業師の三人が合意しなければなりませんのですよ。

システム的には誠に人間の内面の成長を支える騒動らしいシステムなんですがパソコンだってプロが設計するのにバグが出る、ボーズも同じです。

今日はここまで続きはまたね。まだ飽きがきません?

2022年1月14日金曜日

さんさんのお話(7)自衛隊、外資系営業、そして。

 でもってめでたく後期訓練、職種は化学科でした。つまり毒ガスに対応する部署。と言って毒ガスを振り撒く方じゃなくてガスを撒かれたらどうやって兵員、じゃなかった隊員の身を守るか上の方の考えをヒラ隊員に伝え防護器具の維持管理に配慮する…ってな仕事でめでたく東京は練馬の駐屯地に配属されたわけであります。第一師団司令部付き隊管理小隊、ってのが所属でしたなぁ。

何しろ暇な部署だった、やる気のある隊員だったら腐ってしまったであろう暇さ、小隊長は学歴なしで平隊員からたたき上げで士官になった人で話がわかる方であり、暇だったら勉強しても良いぞ、なんて。

そんなこんなで卒業までこぎつけたんでありますが早稲田の二部ってのは夜間講座でありますがよそと違って昼間の教授が昼間と同じ内容の講義を夜する、つまり肩書きは第2学部卒ですが就職する時は一部卒と同じ、うまくいったねぇ。

とここまでとんとん拍子に話がうまくいって外資系の会社に入社営業に身を置いてバカ高い給料もらって…ってそんな万々歳な話がいつまでも通るわけはありません。外資系営業とくればノルマがある、しかもそのノルマ半年達成できないと即はいさようなら。ところが嫁さんはとても上昇志向が強い人、それに気づかなかった私は心底バカでありました。外資系の給料ってのは良い時はでかいが下手打てばそのまま放り出されるってシステムってことが理解の外、まぁそりゃそうだ大方全ての日本企業は若いときは安い給料もらって年々昇給してトータルでいくらというシステム、今年の働きでハイあなたはいくら、来年はまた考えましょうという給与システムはどう説明しても理解できない、理解できないだけじゃなくて私が怠け癖がついたんだと思い込んだ末はおさだまりの別れ話、すってんてんに剥がされてまたまた身一つ、話は振り出しに。

振り出しに戻ったところで前に!書いた四国のボロ寺に繋がるわけですよ。

なんでボーズになったか、後になってつらつら考えてみると

もちろん人生追い詰められた感満載の事態に立ち至ったのはありますが自分の心がって書くと「その心ってなんだよっ」なんて後でさんざしごかれた老師(禅体験の指導者)との問答よろしきお声がかかりそうですがこの心中のイライラをなんとかしたかった、そりゃキリストでもアラーでも阿弥陀仏でも誰かに縋り切って預けるのも良いかもしれないが私的には自分という意識が人一倍強いんでしょう解決も自分の力を出して、その出し方を人から習っても良いが基本は自力更生でいきたい。で結局禅の方向になったんですよね。何しろ禅宗ってのは宗の字はつきますが頼りにする阿弥陀如来なりの本尊がいない、各人の心が本尊じゃぁって変わった集団。中にはありゃァ宗教じゃないよ、暮らし方生き方だわさなんていう方もいるくらい。

でボーズになって自分は社会に何を持って貢献してその一員として義務が果たせるか?

嘉平さんは自然を読んで今日の午後から夜にかけてどっちから風が吹くか、そのとき舳先をどっちに向けるか判断できるのが船乗りになった彼の責務、じゃぁ私は何が???

ボーズ社会に加わって気がつくのは意外に前に書いた若衆組に近い匂いが強い、多くのボーズは今自分が浸っている組織は不変のものという認識の上で若衆組の上部構造に這い上がることだけを考えている…

オラやだぜ、そんなことしたくって何年も朝3時に起きたわけじゃない、じゃお前何ができる。

私が他の人と少しでも違っているのは社会というこの複雑怪奇な、ほとんど一つの生命体とも言えるモノを割と上から下から眺める、そして眺めたモノを考える体験をしてきたこと。

私にできるとしたら作麼生なんて業界語を使わないで普段日常の暮らしのレベルに例えて人の抱える問題を自分のこととして聞き、私はそんな状況だったらこう考えて行動すると例え話を多く使って話をする

そんな生き方ならば自分がこれまで生きてきた体験、僧堂で過ごした経験を含めて皆さんにお返しができるんじゃないか、と考えたところで今日はおしまい。

ジャカランダの花です。元々は熱帯アメリカから持ってきた木のようですが大木になりますし梢いっぱいの派手な紫色の花をつけるので当地でも人気があります。撮影さんさん。



2022年1月11日火曜日

さんさんのお話(6)菜の花の沖の主人公とさんさん

 菜の花の沖の主人公嘉平は自分が所属する若集組、それが淡路島のそのまた離小島で暮らしていた嘉平にとっては所属する若集組、それは自発的に入るものではなく生まれた場所によって一五歳から二十歳ごろまで自動的に加入を強制されるもので組の意見というものがイコール世間様のご意見でありそれは全世界、いや部落から外に出ればどこそこの誰という身分証明を失って収入の道を閉ざされることになる。組を離れるということは浮浪者と同じ、と言ってもいいでしょう。

自分で判断してよしとなったら実行するという人生の指針を持った嘉平はこのルールに従う事をよしとしないで恋人のおふさに落ち着いたら便りをよこすからと言い置いて村抜けをする。今で言うならヒッチハイクと野宿そしてほとんどの距離は歩きで淡路島から兵庫へ行きそこで保証人に立ってくれる人を見つけて廻船問屋に水手として雇われることに。

私も顧みて恥ずるところなくんば一千万人と雖も吾往かんなんて孔子様の論語なんか持ち出して東大か一橋、それでなければ学費は一切出さない、いや家を出ろなんて言う親、今から半世紀も前にはそんな親もいたんですよ。親と子は大名と家臣と同じみたいに考えて“家”と言うグループ”の発展のためには各人は自我を捨てて、なんて言うのが罷り通っていた。

でどうしたですって。岩波文庫一冊と下着一揃い詰めた通学バッグとポケットに小遣いの残り、確か2000円ぐらいだけだったかな、持って夜明けの街に一人。

いや少々悲壮だったですね。安宿でも泊まれば飯食う金がなくなる、駅のベンチでねれば飯食える代わりに風呂の入れない、さぁどっち?

東京の冬の寒さが身に染みましたがまず飯と寝床を確保しよう。人生をそこから考える人はそう沢山はいない。住み込みで今日からでもいいと言う下町の町工場、ウエーハースを焼く工場でしたが一枚一枚手焼き。知っていましたウエーハースってでんぷんを水に解いて電熱で熱くした鉄板に挟んで焼き上げるんです、がこれは飯風呂寝床つけて今夜からでもって破格の条件なわけでこればんざぁーいだったんですがやってみると同じことの繰り返しだけで全然面白くない。

面白くないだけじゃなくてこれじゃ大学に復学する、これも知らないでしょうね休学と退学の違い。休学は授業料半額払い続けなければならない、退学は学籍が削られるので三年生と四年生で退学したら編入試験受けて三年から再編入できるしその間の学費負担なし、その復学する学費を貯める金がほとんどもらえない。

まだ自分の能力のどこが金に変えられるのかわからないままの十七歳、山岳部にいた経験からまぁ体力なら、ってんでほらよく言うでしょ「追い詰められたら男はどかちん女は…」って。急場を救ってくれたウエハース屋の親方へのお礼の気持ちで半年働いて今度は陸上自衛隊。これ楽しかったんですよね。男の子っていつでも戦争ごっこが大好き、おまけに世間をいくら見回しても自衛隊が生身の人間に鉄砲撃つシーンてのは考えにくい、いやられない。要するにごっこ、で面白い面白いで日を過ごしていたら3ヶ月後の基礎訓練終了時は三百人だったか五百人だったかの同期新兵のトップに卒業式の時は残りの新兵たちが整列する前に立ってこの私が指揮官ドノ。ははは、呆れるねこりゃ。

上官も私の学歴を知って「練馬駐屯地に配属できる用の手を回すからなんとか卒業して幹部自衛官を目指せって」まぁ定年まで自衛隊にいるかはゆっくり考えるとしてなんのこっちゃ私が書いた人生のスタートは

想っていた以上に日が当たってきたじゃないですか。

嘉平さんが500石船に下級船員に雇われて初めて沖に出て朝日に向かって柏手を打った気持ち、まさに私のそれに二重写しでありました。

オーストラリアの菜の花畑。
 https://www.abc.net.au/news/2018-12-24/pic-of-the-week---canola/10635680?nw=0


2022年1月5日水曜日

さんさんのお話(5)禅坊主になったきっかけ

 今、司馬遼太郎の「菜の花の沖」という本、さぁ何度目の読み返しになるだろう、四回目か五回目かどこかそのぐらい。

主人公の嘉平という男、淡路島の最北端のそのまた先にある小さな島に生まれてその島の中で本村という部落、この部落という概念はいなかに住まないとなか中しっくりできないモノですが都会で言えばなんとか町何丁目ぐらいの大きさと言っていいでしょうか。

本村で食べるのもやっとのビンボー暮らしの家に生まれて12、3歳で親類の雑貨屋の家に住み込み奉公に出る…動機は親に食べ物の心配をかけないように、ってんですからそのビンボー振りが分かる。

で今でもそうですが特に田舎では青年団,若集組ってものがあって参加はほぼ強制だったらしい。こういう小さい集団ではビンボー人の子はいじめられますが彼は思うところがあって奉公先の部落の若集組に加わらず生家のある本村の組に入った。これはいじめの対象になりやすいですよ。おまけに部落一の美人さんが彼に惚れた。もう止まりません、若集組の中のおっちょこちょいが嘉平に浜に干してあったいりこを盗んだという濡れ衣を着せて叩き出す仕掛けをした。

嘉平はこの小さな淡路島の脇の小島のその中の部落という共同体のそのまた若集組という一部の人たちに憎まれた自分という事実に納得がいかず彼は瀬戸内海を渡って対岸にある明石だったかな、の廻船問屋に雇われて船乗りという海と風と船をどう釣り合いを取って走らせるか,という船乗りという技術者として生きる道を選んだ…というのが長々と続く菜の花の沖の第一巻のあらあらとした内容なんですが

この中で集団の中に身をおいたらどれほど非合理と思われる決定や習慣でも「はい」という以外の返事はできない。

自分の頭で周囲の状況を知り判断して自分の行動を決めることが許されないし一度参加した組という小集団から抜けることも他所の組に移動することも許されない。

小学校に入った時から自分の頭で判断しなさい、自分が決めたことはその結果がどうあろうともその結果を受け入れなさい…てな事を聞かされて「それが個人の自立というモノです」と聞かされて”うん、これだよこれ、と思い定めて私は大人になったんですよね。

ところが自分で情報を集めて自分で判断して決心したら歯を食いしばって実行して結果に責任を持つ、ってこれが日本の世の中では通用しないってことがわかるまでにそう時間はかかりませんでした。

これは楽しようとして社会の本流であるサラリーマン、営業なんてところに身を置いたからだろうと持ち前の好奇心を働かせて自衛隊で鉄砲打ってみたり(素質があるってんで狙撃兵に選ばれて射撃の集中訓練までしましたっけ)その後坊さんならどうだろうってんで見ず知らずのお寺、東京生まれで四国なんて行ったこともなかったのに高知の町外れの見るからにボロ寺。

「あの私僧侶になりたいんです」

「そうかまぁ上がってしばらく居てみな」

このふたことだけでこの寺の小僧になってしまったわけでその後歩いて四国遍路回ってきなさい、と言われて歩き遍路。何しろ金持たずで托鉢していただけたら飯食えばいいし何もいただけなかったら飢えればいい、それが修行じゃぁ」っていわれて”はぁーい” ひとまわり千六百キロでしたか3、4ヶ月かかりました。お金がある時は遍路宿って安宿で、ない時は村はずれのお宮さんの軒下とかで野宿、要するに今風にいえば歩きホームレス暮らしですなぁ。

しかし伝統というものはすごいもので白衣で杖をついて歩いているとこちらから願わなくてもお米とか10円玉(何しろ五十年以上昔のことですから)を胸にかけた頭陀袋に入れてくださる方がいる。道連れになったお遍路さんにも「もうじき癌で死ぬからどこまで行けるか知らないけれど行けるところまで」って言われる方や「破産して首吊ったけど死ねなくてねぇ」なんてすごいこと言う人も。

もちろんルンルンでご夫婦でハイキング気分で歩く方もいらっしゃいましたがそれもこれも混じりあって流されてゆく社会というモノを感じました。

この辺で「よし。本気出して禅坊主になろう」と言う気がむっくり湧いてきたんです。

で帰ってきて…なりたいって和尚に言いますと

「よし、三年は暫暇(業界語で休暇のことです)なしで僧堂で居りっぱなしで居ろ」と言うお言葉、そのまま頭丸めて何やら色が変わった先輩が残した木綿衣や脚絆を身につけて、パンツまで褌にされたなぁ、四国から海を渡って天下の鬼僧堂と言われる久留米の修行寺へ。そこでまる五年いて和尚が亡くなってから後住、後つぎの住職ですなが決まらんでもうう何年も人が住まない寺があるから来てちょうだい、といわれて。明治の何年かに初めてできた新しい寺で私で8代目。

と言うところで長くなりました今日はこの辺で。菜の花の沖と私がどう重なるかは次回のお楽しみ。

2021年12月31日金曜日

さんさんのお話(4)オーストラリアの新年

 さぁ年が明けました、年号も二千二十二年にかわります、きりっ

な訳がないですよね毎日30度でこぼこの気温で蒸されていては。

その年が明ける直前のシドニーハーバーブリッジ、要するに奥深くまで湾入しているシドニー港にかかる橋なんですが地元では衣紋掛け?通じないか、ハンガーのでかいのとか言っているそう。
大晦日にはこの橋が舞台になって花火大会であります。なんでも入ってくる人が多すぎて「危険である」って理由で今年からは花火が見えるエリアに入るのには料金がかかる、とか。
なんかしみったれたはなし。その代わり12時の時報がなったら手近の誰でもブチューてキスしてもいいって習慣、やっぱ減らないんじゃないかなぁ。
これは不思議な習慣ですねぇ、リガやニューキャッスルでも同じ習慣がありますか?
ともかくオーストラリア人、いやそう言う人種はいないな、オーストラリアという土地に根付いた文化を継承する人々、長ったらしいってんだよっ!は肉体労働を苦にしない、めちゃめちゃ働く。
この性癖は戦争の時にも発揮されて「豪州兵の恐れ知らず」とか「あいつら人間か?」などと相棒の英国兵をびっくりさせたり呆れられたりしたらしい(真偽不明)。

うちの隣のおじさんなんて土台から自分一人でコンクリこねて一部屋増築してしまった。町役場の完工検査を通過しているんだから日曜大工のレベルじゃないんでしょう。

ともかくものすごく働くのと背中合わせのように飲む時はそれこそ底なし、滝が流れるように流し込む。特に大晦日この花火目掛けて四方八方から酔っ払いが詰め掛ける。
元日の早朝には道路掃除のおじさんが道路に散らばった空き瓶を片付けポリスはゴロゴロ道路で寝ている酔っ払いをトラックに投げ込んで片付ける(これはウソ)

この働くことと底抜けに飲むが対になっているのは広大な風土とぱらっとしか人がいなかった時代が長かった経験が次第に土着の文化に昇華していったんでは、と私は思うんですよ。
大草原の小さな家(覚えていますか?)じゃないけれど周りに人がいなかったらそれこそ何でも一家の中心のお父さんがしてのけなければならない。ヤダァ出来ないよーって言っていたら
手に入らないっていうこと。カネという便利な道具に物を言わせることができなければいやでもお父さんが頑張るしかない。

それと対になった酒ということですかね、政府も心得ていてビール(いくら飲んだってアルコール度数が低いビールならたかが知れてる)の税金は安くする代わりに蒸留酒(度数が高い)は
めちゃくちゃ高くして無闇に飲めないように誘導している。ちなみに私はここ二十年ほどはビールを自家醸造しているので酒代はほとんどただ。もちろん合法ですよ、蒸留装置は持っているだけで罰金食うのに
自家醸造、ビールワインの類はお咎めなし。その代わりウイスキーやラムが700ccで$80以上するんじゃとてもじゃない梅酒なんて作れませんよね。

2021年12月29日水曜日

さんさんのお話(3)除夜の鐘

 さて、クリスマスも終わって年末がすぐそこ。さんさんから除夜の鐘のお話が届いています。大晦日に除夜の鐘を聞く前にさんさんのお話で除夜の鐘のエピソードを仕入れておくと、きっと今年の除夜の鐘はいつもと違った響きになることと思います。by 管理人

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水の流れと世の中は、って一瞬も止まらずに流れ去る…と私たち人間には思える、時の流れに想いを致す時期がまいりましたね。

大抵ノー天気でもこの日ばかりは「はてこの一年何してたんだろ?」と想いを馳せる、ことになっている。

想いを馳せるには人間何かしら手続きというか決まり事がある方が楽なのはこれも皆さんご承知の通り。

大体12月31日で一年が終わって、なんていうのもその時の天文学者と政治家の都合で”たまたま’その日に決まっているだけのもの。

日はまた昇るってヘミングウェイの名作がありますが地球も太陽も回り続けその上で営まれる生も変わりながらの続いてゆく、のがぶっちゃけ本当のところ。


でもそれじゃなんか味気ない、決まりを作って世の中皆それに従うのがよろしいと言った人がいたのかどうか、戦後アメリカの影響下に長くいたせいか彼方の風習だよって看板立てると

わっと人が飛びつく、物が売れるってんでクリスマス。

でもこっちは急拵えで導入されたせいか24かのイブをすぎるともう誰も振り返らない。オーストラリアのクリスマスは「海からサーフボードの載ってサンタが来るんでしょ?」ってよく聞かれますが

私的にはまだ見たことがない。「そりゃお前ビキニ(これがまた当地のは極端に布地を倹約している)のオネェ様ばかり見ているせいじゃ、って?


ともあれ31日、まだ今年のうちにつき始めます。私が習ったのは鐘の撞き初めのは(あのね鐘は打つ物でも鳴らす物でもなく撞く物ですからね)捨鐘と言って ご〜ん、ごんごん、ご〜んと4つ回数に入れない鐘を撞く。そのあと1っ分に一回ぐらいでついてゆくと大体終わるのが2時過ぎぐらい、数はですね昼間のうちに農協の売店に行って大豆を買ってきてお椀に108個豆を入れておいてひとつつくたびに一個闇の中に放る、これで数え間違いが起きない。最初のひと撞きふた撞きを自分でついてその頃にはいくら田舎寺でも人が集まっていますから「後をお願いね」って交代して本堂へ行って除夜会ってなんか厄除けみたいな誦経を一人で読む。一人でって言っても次から次へ人が本堂にお入ってきて本尊様に礼していきますからこっちも経文読んでいるだけじゃいかん、背筋を張って声張り上げて真冬の深夜に障子戸開け放して経を読んでうっすら汗をかくほどの精魂傾ける。


本尊の観音像の前に捧げてあるのは正月5日から檀家周りして一軒一軒配る厄除けのお札、結局お寺とか宗教ってものはそれを支えている人から見ればこの厄除け、医者も役人も親類も手を出して助けてはくれない不運、病気であれ事故であれ争議であれ人生につきまとう忌みごとから守ってくださいってことに尽きるのかなぁ、僧堂ではそんなことは一言も言われなかったただひたすらに己の心の奥深く沈んで動く心を動かさない工夫をって言われ続けたのに…なんて経を誦みながら考えたこともありました。

結局は本尊仏って言ったってあれは例えればバス停の標識みたいな物。思想という天空をかける稲妻の如き物が作った仏という存在が「お、ここにバス停がある」と足を止める目印。本尊さんその物がありがたいわけじゃなくて時たま立ち寄られる仏という人間の心の澄み切った塊が有難いだけなのでは。


2021年12月24日金曜日

さんさんのお話(2) 暑い国のクリスマス(オーストラリア)

クリスマスの料理作りと掃除でてんてこまいの管理人である。と言うわけで、25日に予定していたさんさんのお話を前倒します。

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北半球の日本やイギリスと季節がま反対の南半球、うちあたりの緯度ですとこの12月後半から2月末までが一番暑い。

おかしな物でうちからは二千キロも南に下がったアデレード辺は真夏も涼しくって思いますがあそこな南極と近い代わりに砂漠とも数百キロしか離れていない

おかげで南風が吹けば真夏でも長袖が入り用になるし北風が砂漠の空気を運んでくれば40度超える日も珍しくない、そうです(私はまだ39度以上の気温てのは経験したことがない)。


逆に北の方にあるダーウィンあたりはこれはもう熱帯と同じ常時暑い代わりに雨が降る季節と暑いだけで雨が降らない季節があるだけだそうでこれも行ったことはない。

しかし人間何が嬉しくてぱらっとしか人がいないのにそんな極端な土地に行って住み着くんだろう?

流石に伝統を重んじる元イギリス人も故郷のクリスマス料理は熱い盛りには勘弁してほしいと7月25日、つまり寒い盛りですな、にクリスマスプディング(そうとうちはクリスマスケーキじゃなしに

材料を混ぜて晒しの布にくるんで度分とお湯に沈めて茹でるプデイングが正当なのであります)を食べる集団がいるそうです。

クリスマスは家族揃ってが基本、おかげでハイウェイは長蛇の渋滞のはずが飛行機もハイウェイもガラガラ、「帰ってこなくて良いよー」が合言葉なんでしょう。

日本では盆正月で年に二回家族顔合わせのチャンスがありますがクリスマス外したらたらどうするんだろ。

それに英語がチャッと通じる国で治安が良くてクリスマス休暇に泳げる、帰ってみんなに日焼けを自慢できるがウリだった観光業界隈も青息吐息とか。我が国どうなるんでしょう?

太平洋。サーフィンサンタは見当たらない。


2021年12月18日土曜日

さんさんのお話(1)

さんさんに寄稿をお願いしました。というのも、このブログを読んでくださっている方々は少なからず海外で暮らすということに興味を抱いている、もしくは海外で暮らしている人々はどう決意して住んでいるのか、という様な根本的な「海外で暮らすとは?」という問いがあるのかなと思ったからです。さんさんは在外邦人としては大ベテランです。面白い話がさんさんの人生には詰まっています。それを知りたい人は沢山いると思います。さんさんの都合もあるので不定期にはなりますが、さんさんのお話を掲載していきたいと思います。


皆様初めまして…ではないなぁ「ラトビアに嫁に行くか」ではしょっちゅう具にもつかない意見をコメント欄に書き込んでお目を汚している”さんさん”でございます。この度は管理人さんのご好意で

「お前も少し自分の身の回りのこと書いてよ」との仰せで恥ずかしげもなくしゃしゃり出た次第…ってこの辺りの書き方いかにもな日本人丸出し。何かへりくだっているみたいで実はちっとも”下って”いない、ははは。

まず自己紹介から、名前は、さんさんで参りましょう。職業ではないんですが、あれって職業とはいえませんよね商売だったら大変なことになる、一応肩書きにしましょうか。肩書きは禅ボーズ、坊主と書かないのはトレーニング期間を含めて十八年プラスオーストラリアに来てから約四十年時間が経ちましたがまだ私の名前は本山の僧籍簿からは削られていない、いないよなぁ確かめておらんけど、寺という名前の施設を預かっていない、完全じゃないから坊主じゃなくてボーズ、でもそれが私の自分に対する誇りでもあります。まぁここいらはおいおいと。

でもってお師匠さんのところに小僧に入りますとそれまでの親のつけた名前を捨てて僧名をお師匠さんがつけてくれる。私の場合は減算、じゃなかった玄山という名前。苗字は無くなって何とか寺の玄山になる。

でもって僧名がついたからってまだ坊主になれるわけじゃない。制度は各宗違いますが私の場合は僧堂、雑にいえばボーズのトレーニングセンターに最低でも三年はいなければならない。

私がいた時でも15、6人の雲水、つまり修行中の小僧が草鞋を脱いだ九州の修行道場におりましたがそこでは玄山なんて呼んでくれない、名前の下の一字に〇〇さんのさんをつけて私の場合は山さん、やまさんじゃありませんよさんさんとよばれることに。

朝3時に起こされて堂内庫裡の拭き掃除、ひろいですからねぇはぁはぁ息を切らせてて拭き掃除して朝のお勤め朝課ですな、それから朝ごはん。朝ごはんなんてイメージとしては朝日が差し込む食卓に銀色に光るご飯が湯気を。なんてものでしょうが僧堂の朝ごはんはおかゆ、それも水一升(1.8リットルですなぁ)に米さかずきに一杯、まぁ白湯を飲んでいるよりはマシてなおかゆにたくあん、何しろ三黙堂と言って食堂浴室東司(トイレのことですわ)では絶対に無言無音が約束事(その割には皆p*ーーっって言わせてたがなぁ)ですからたくあんも気楽にパリパリとは言わせられない。たくあんは紙よりもうすーく切ってしゃぶって塩気を口中に出してあとはおかゆといっしょに丸のみにしちゃう。そのたくあんも気楽に全部食べちゃいかん、何枚か残しておいて最後に鉢にお湯を汲んでもらって残した沢庵で中をぐるっと拭って飲んでしまう。

鉢を包んできた布巾で拭きあげればハイ洗鉢の出来上がり

長くなりましたから朝ごはん後の日課は次の第二回に。 写真は今私が住んでいるオーストラリアの東海岸の農村の風景です、嘘つけ、農村て人家なんか見えないじゃんとおっしゃる?画面中央のやや左寄りをご覧あれ、白い点がぽちっと。あれが隣の家です。