さて、クリスマスも終わって年末がすぐそこ。さんさんから除夜の鐘のお話が届いています。大晦日に除夜の鐘を聞く前にさんさんのお話で除夜の鐘のエピソードを仕入れておくと、きっと今年の除夜の鐘はいつもと違った響きになることと思います。by 管理人
___________________________________
水の流れと世の中は、って一瞬も止まらずに流れ去る…と私たち人間には思える、時の流れに想いを致す時期がまいりましたね。
大抵ノー天気でもこの日ばかりは「はてこの一年何してたんだろ?」と想いを馳せる、ことになっている。
想いを馳せるには人間何かしら手続きというか決まり事がある方が楽なのはこれも皆さんご承知の通り。
大体12月31日で一年が終わって、なんていうのもその時の天文学者と政治家の都合で”たまたま’その日に決まっているだけのもの。
日はまた昇るってヘミングウェイの名作がありますが地球も太陽も回り続けその上で営まれる生も変わりながらの続いてゆく、のがぶっちゃけ本当のところ。
でもそれじゃなんか味気ない、決まりを作って世の中皆それに従うのがよろしいと言った人がいたのかどうか、戦後アメリカの影響下に長くいたせいか彼方の風習だよって看板立てると
わっと人が飛びつく、物が売れるってんでクリスマス。
でもこっちは急拵えで導入されたせいか24かのイブをすぎるともう誰も振り返らない。オーストラリアのクリスマスは「海からサーフボードの載ってサンタが来るんでしょ?」ってよく聞かれますが
私的にはまだ見たことがない。「そりゃお前ビキニ(これがまた当地のは極端に布地を倹約している)のオネェ様ばかり見ているせいじゃ、って?
ともあれ31日、まだ今年のうちにつき始めます。私が習ったのは鐘の撞き初めのは(あのね鐘は打つ物でも鳴らす物でもなく撞く物ですからね)捨鐘と言って ご〜ん、ごんごん、ご〜んと4つ回数に入れない鐘を撞く。そのあと1っ分に一回ぐらいでついてゆくと大体終わるのが2時過ぎぐらい、数はですね昼間のうちに農協の売店に行って大豆を買ってきてお椀に108個豆を入れておいてひとつつくたびに一個闇の中に放る、これで数え間違いが起きない。最初のひと撞きふた撞きを自分でついてその頃にはいくら田舎寺でも人が集まっていますから「後をお願いね」って交代して本堂へ行って除夜会ってなんか厄除けみたいな誦経を一人で読む。一人でって言っても次から次へ人が本堂にお入ってきて本尊様に礼していきますからこっちも経文読んでいるだけじゃいかん、背筋を張って声張り上げて真冬の深夜に障子戸開け放して経を読んでうっすら汗をかくほどの精魂傾ける。
本尊の観音像の前に捧げてあるのは正月5日から檀家周りして一軒一軒配る厄除けのお札、結局お寺とか宗教ってものはそれを支えている人から見ればこの厄除け、医者も役人も親類も手を出して助けてはくれない不運、病気であれ事故であれ争議であれ人生につきまとう忌みごとから守ってくださいってことに尽きるのかなぁ、僧堂ではそんなことは一言も言われなかったただひたすらに己の心の奥深く沈んで動く心を動かさない工夫をって言われ続けたのに…なんて経を誦みながら考えたこともありました。
結局は本尊仏って言ったってあれは例えればバス停の標識みたいな物。思想という天空をかける稲妻の如き物が作った仏という存在が「お、ここにバス停がある」と足を止める目印。本尊さんその物がありがたいわけじゃなくて時たま立ち寄られる仏という人間の心の澄み切った塊が有難いだけなのでは。
10 件のコメント:
蛍の光の合唱で紅白歌合戦が終わると画面は一転し、どこかのお寺から男性アナウンサーの低い厳かな声での中継が始まるのが大晦日最後の最後の習わしです。12時前ですが背後からは除夜の鐘の音が聞こえてくるので、12時前から撞いているのだなあ、となんとなく思っていました。
この辺りでは除夜の鐘の音が聞こえてきますし、近くのお寺では撞かせてももらえます。有料の所もあるよです。有料というより志なのでしょう。でも最近ではこの除夜の鐘がうるさいという苦情が届くようになり困っているお寺もあるそうです。時代の変化で片付けていいものやら複雑です。心に染み入るものがないのでしょうか。
さんさんの最後の部分、妙に納得感がありました。神も仏もいる日本ではその方がふさわしいのかもしれません。
こんにちは、紫陽花さん。
行く年来る年、見たいなあと思うのですが、どうしても見せてくれないんですよ、NHK。NHKの国際放送でも見せてくれないんですよね。なんなんでしょうね。
除夜の鐘がうるさいって、なんだか悲しい苦情ですね。
こんにちは、さんさん。
私のFacebookにもこの記事のリンクを貼っておいたところ、私の友人たちも特にバス停のところになるほどなあと思ったそうです。興味深いお話、ありがとうございます。
紫陽花様、バス停の例えに共感をいただきありがとうございました。
なんかしら人間の目に見えるものがそこにないと不安になる、これは当地のスクールバスに低学年の子供を連れて初めて行ったときにしみじみ感じました。スクールバスにはバス停はありません(あたりまえじゃ)、役場に転入を届けたときに「ああ、この住所なら8時15分ごろ道に立ってれば止まってくれるよ」といとも簡単に言われただけ。万事ザッとしたオーストラリア、本当に大丈夫かなぁとひどく不安に思ったものでしたがコレはまだ日本の習慣が抜けてなかったせいでした。
仏様も同じでしょう
管理人様
バス停の話、昔からそう思っていました。
昨日の残り飯もぶち込んだ雲水用のおかゆ(残粥、ざんしゅくとよびます)とは別に専用の釜戸専用のかまどで炊いたご飯とおかずを本堂の仏さんに毎日供えるのですがその仏飯を10時ごろ下げたやつを雲水が順番に昼飯の時に食べなければいかんわけですよ。もう時間が経ってカピカピになったご飯と冷たい味噌汁、「なんかコレ違うと違う?」なんておもっていましたがねぇ。
バス停、納得いたしました。
人間の澄み切った心というもの、私には遠く感じました。まだまだ日々生活するだけで一杯一杯で、心を深く掘り下げてみる事まで至っていません。
目に見えるものに安心を覚えるのは、本当にそうだと思います。その奥にある見えないものまで見通せたら良いのですが・・・。
今住んでいる。お尻に火がついたような気持ちで慌ただしく生活していると、さんさんが書かれる文章を噛み砕いて自分の中に落としていくような事が、とても大事な気がします。
かまくら様
コメントありがとうございました。
火事場の阿修羅という言葉がありますが(ないって?)文字通り尻に火がついたような目まぐるしい毎日、ひとときも”次何する”と向こうから用事が押し寄せてくるような毎日でございましょうがときにホッとする瞬間には物事を母国語で考える習慣もまた大切ではなかろうかと…
言語はただの道具とかもうしますが、単に意思のやり取りをする便利な道具として使っていると
ときにその一つの単語が背負っている意味に意味だけではないそこはかとない含蓄と言いますか
下心のあるお歳暮みたいに菓子折りの下に封筒、みたいな言葉の裏に潜ませた話し手の意思が感じられるのは母国語という物凄くありがたい存在のおかげだと私は思います、なんちゃってエラソーなことを申しましたが親の代から玄関の外に傘立てとして使っているかめのような安心感を与えるもの、それが母国語ではないでしょうか。
ゆく年くる年、見ないで寝ちゃいます。明日も仕事!
さんさんのありがたいお話で年越しです。
管理人さん、皆様、今年もありがとうございました。来年もよろしくおねがいします。
こんにちは、megmeg殿。
おお、元旦もお仕事!頑張ってください!
2022年がmegmeg殿にとって良い年でありますように!
megmegさま
私の話なんかありがたくもなんでもないですって!
単に私が過去に経験した、そこはそれ老人ですし移住なんて跳ねっ返りしていますし人にこちらの意図を分かってもらうには例え話が有効なんて経験も。
だからちょっと同じ材料でも味付けが変わって「美味しそうじゃん」って言って頂けているだけでござんす。
まぁ読んでください、大して中身なんぞないことですからお気楽に。
コメントを投稿