ちゃんと奨学金は返してくださいね
それが元気な頃の従兄弟が管理人に言った最後の言葉だったような気がする。当時従兄弟は育英会に勤めていて、お正月の親戚大集合であった時のことであった。短歌を詠むらしいというのはちょっと聞いたことがあった。その後、従兄弟は少しづつ具合が悪くなり、数年後に38歳という若さで亡くなってしまった。
X染色体劣性遺伝の病気を受け継いでしまった彼は大学を卒業して就職してこれからという時に発病、そして数年の闘病生活の末帰らぬ人となった。彼の死後に彼の作品を家族や彼をサポートしてくれていた人たちが出版へと漕ぎ着けた。短歌の歌集などと聞くと一回出版すればそれっきりになってしまうような印象を受けるが、従兄弟の歌集はたくさんの人々の支持と協力を得て増版に至っているのである。
3番線快速列車が通過します理解できない人は下がって
という歌が代表的に扱われるが、彼の短歌は元気な頃のものと病気になってからのものと分けて考えたほうが良いようである。病気になってからの「生きる」ということを考えた作品はもっと深く内臓を抉り取られるような激しい悔しさと生への未練が生々しく描かれている。 あまりに生々しいので読む人によっては不快感を覚えることもあると思う。ただ、それは38歳といいう若さでどうしても避けきれない死への道を歩まざるを得ないものにとってはそういうものなのだと理解していただきたいのである。
従兄弟は管理人より5歳ぐらい若く、飄々とした青年であった。いつも笑顔を浮かべていて優しそうに見えながらそれでも自分の意見は忌憚なく発する青年であった。
今彼は歌集の中で永遠に生き続けているのだと思う。
5 件のコメント:
従兄弟というと兎角大人になるにつれて疎遠になりがちなもの、管理人様の場合若くしてこれからというときに早逝なされた、時間はその「刻」で止まりいわば良い記憶だけが残る。
それだけに心の傷は刻に癒され忘れがちになることで残ったものの傷は癒やされてゆくもの。。。なのですがなまじお若い時に別離、管理人さんのお心のうちはさぞや、とお察し申し上げます。
どうか「忘れ去る」ことで安易に癒しを手に入れるよりはいつまでも思い出をご心中に抱き時々は今回の記事のように身内外にも吐き出されお心をいっときでも癒やされますことを。
こんにちは、さんさん。
心の中で生き続けてくれることが嬉しいですよね。そして、こんな人がいたんだよ、こんなことを残したんだよ、と語ることは改めてその人生がそこにあったものだと確認できるような気がします。
私の母方の叔父が確か二十になったかならずかの年齢で結核のため亡くなった時のその両親、つまり私からみればジジババの嘆き苦しみはそれはもう言葉にも尽くせないほどの物だったそうで、当時の医学では結核は不治の病、栄養を多く摂ってあとは運があるかないかを息つめて見守るだけだったそう。
まず確実死の割合が多い息子が日に日に痩せてゆくのを目の当たりに何もできない、そりゃわかります。
たいして金もない人たちでしたが預金を叩いて、文字通り家産を傾ける勢い
で追想録を出版(と言ったって書店には並びません、だって買う人居ませんもん)したそうで、まぁそれのおかげで私も自分が生まれる何十年も前の一人の親族の短い生涯をしった訳です。大いにモッタ文章ばかりではありますがそれなりに大昔の親族の価値観やらが理解できたことを覚えております。
忘れ去るもよし記録に留めるもよしでありますね。願わくはあと何年か私が死ぬまでに大悪事など仕出かし長く人の記憶に残るようなコトになりませんことを。
書き忘れましたが彼の最後の言葉が「おとうさん、おかぁさん、ありがとう」だったっていうのですが、出来過ぎみたいにも聞こえまた一方「いやほんとかもしれないぞ。追走録の最後の一行に大嘘カマす親がいる」とは思いたくはない。。。とも。
こんにちは、さんさん。
今や多くの人々が100歳まで生きる時代になって、若くしてその生涯を閉じざるを得ないというのは想像を絶する悔しさが伴うものだと思います。そしてそれを看取る親御さんの思いたるや相当なものだと思います。
最後の言葉が「ありがとう」だったというのはきっと本当ですよ。
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