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2022年3月11日金曜日

3.11

 あの日は出勤して朝9時に職場でメールを開いたら、

「みんな、大丈夫ですか?」

という、その当時関わっていた日本のベンチャー会社の人からのメールを目にして、これは何か大変なことが日本で起こっている、一体どうしたのだろう。ととても不安に思ったのが最初だった。冬時間なので日本では地震発生から1時間半ぐらいだったのだろうか。ネットニュースを見るとそこには信じがたいニュースが溢れていた。慌てて日本にいる父に電話するも留守電になっていて通じない。何回電話しても通じない。そうこうしているうちに電話自体が繋がらなくなってしまった。日本にいる弟にも電話がつながらない。そこで従姉妹にメールでなんとか父親の安否を確認してもらえないかとお願いしたところ、アパートまでみに行ってくれて、返事がないので警察を呼んでドアを開けたのである。

父は震災とは関係なく、数日前に心臓発作でなくなっていたのであった。

そんなこんなで父の命日はよくわからない。なので3.11が父の命日だとしているのである。

今日は父のために、そしてあの震災で亡くなった多くの人のために、そしてウクライナの戦争で命を落とした人のためにろうそくを灯した。

ろうそくの炎をながめながら父を想う。そして震災の被害者を想う。そして遠くウクライナの地で命を落とした人々を想う。そして今更ながらに一つ気づいたのは、命は父であろうが日本人であろうがウクライナ人であろうが同じだということである。管理人が感じる父が亡くなった悲しみは、遠く離れた誰かが家族の誰かを失った悲しみと同じなのである。

共感というのにはきっとレベルがあって、ああ、気の毒、ああ、かわいそう、というとことから魂を揺さぶられるような共感までさまざまである。だが、家族を失うという悲しみはなんであれ万国共通なのである。

その共感が今一番世界に必要なんだとおもう。


4 件のコメント:

さんさん さんのコメント...

今日の書き込みにお返事の書きようがありません。
妹さんのお電話の返事にはっと息を呑むあなたが目に浮かびます。
私も自分の師匠、私がその人の手で得度して頭をそった人、がなくなった時電話がかかってきて
「先ほど亡くなった、すぐ来られたい」とのこと、「すぐはいかれません、留守にする支度をしてから」と言ったら「師匠の死に目に帰らん気かぁ」頭から怒鳴られその後葬儀の連絡もないので「ははぁ、外国に住んでいると同じ日本人扱いはしない、来いと言った時にすぐ来ないやつは籍を削ったな」とおもいました。

日本という人の集まりはすぐ手に触れられ声が聞こえないと縁という糸も切れてしまう風習なのだと妙に納得したものでした。
心と心で繋がる、思い出の中で生きている…なんてのは夢物語で墓石に線香を捧げて頭を下げる、その行動だけが認められるのでしょう。

紫陽花 さんのコメント...

ウクライナの今があるからなのか管理人さんのコメントはとても胸に沁みるものがあります。
3.11 あの日の長く続く不思議な感覚の揺れ、何度も起こる余震で電線や建物がガチャガチャいう音、津波が起こっていることは知っていましたが停電が終わった夜の9時過ぎに目にした津波の映像、今でも思い出すと胸が痛みます。
大混乱に陥っていたこちらの映像だけでも堪えるはずですが、思いがけないお父様との別れ。辛い日になってしまいましたね。防災がもっと進んでいたら3.11の被害はもう少し抑えらえたかもしれませんが、自然災害であることを受け入れ立ち上がれました。ウクライナは起こらずにすんだことが起こしてしまって街並みが人為的に破壊されていき憤りと虚しさだけです。

Mikija さんのコメント...

こんにちは、さんさん。
心臓発作じゃ仕方ない、と自分を責めるなよという父からのメッセージが聞こえる気がします。生前から「コロッと」と言っていたのをそのまま体現したわけであっぱれでもあります。従姉妹には叔父の亡くなっている現場に立ち合わせるという気の毒な目に遭わせてしまいました。でもあれからもう11年も経つんですね。時の経つのは早いものです。

Mikija さんのコメント...

こんにちは、紫陽花さん。
3.11の直後に日本へ帰国したのですが、その時でもまだ余震が続いていました。2週間ほどで色々な手続きやお葬式を済ませていざラトビアへ帰る際も各所でまだ混乱が続いていました。今まで経験したことのないショックに日本中が包まれているのを体感しました。
それでも日本は本当に驚くほどの忍耐強さで着実に復興しています。その復興の経験やノウハウはこの戦争が
終わった時のウクライナの復興に必ず大きな役割を果たすことができると思います。